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災害支援「かながわケアマネ隊」石巻訪問記

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 神奈川県介護支援専門員協会では3月11日に発生した東日本大震災により被災した多くの方々に対し、「私たちにできる支援」を模索し、まず20万円の義援金を送らせていただきました。
 その後各係機関からの情報などを元に検討した結果、「かながわケアマネ隊」を結成し、継続的に被災地に対しての支援を行うこととしました。1人あたり2泊3日、入れ替わりで被災地に赴き、被災者への支援体制の構築と継続性を担保していくこととしました。4月14日~5月11日まで27日間に渡る数珠つなぎ支援「繋がり、繋ぎ、繋ぎあいながら・・・」が始まりました。

 私は、今回のこの復興支援派遣に第3番隊として参加し4月19日から21日まで3日間、被災地にて活動をしてきました。

4月19日  先発隊との引継~市内視察

 7時に横浜を出発、首都高から東北道を北上、石巻に向け車を走らせる。
 途中立ち寄ったパーキングでは、機動隊、自衛隊などの車両と隊員に囲まれ、普段目にする光景とは異質のものがあった。福島県にさしかかった頃から、道路に亀裂が多くなる。また、ブルーシートがかかった家屋が目に付くようになる。瓦が落ちている、壁が崩れているなど、地震の被害が目に見えて明らかになっていく。

 宮城県にはいると山から平地に変わる。突然景色が開けると、そこには思いも寄らない光景が広がっていた。津波の被害が大きかった名取市内を走行する。高速道路の右手、海側に広がる平地・・・おそらくそこは農地だったのだろう、自動車や、がれきが転々としていた。ふつうでは考えられない景色が広がった。道路をはさみ、左右での被害が大きく変わっていた。道路が防波堤となり、海側との被害の差がこれほど大きいのか。
 引継をすませ、市内視察へ出かける。

 横浜でメディアを通してみている平面的な被害状況と比較して、現地にて直接目にした光景は騒然としたものであった。ある人は戦後の焼け野原のようだと言った。市内至る所にがれきの山、家々の前には津波で水に浸かった畳や家具類が積まれている。壁が剥がされ柱だけになった建物が点在し、道路は地盤沈下により冠水していた。
 
湊地区の産業は水産加工業。津波により加工物が工場から市内に散らばった。そのため、ヘドロのにおいに混ざり、ものすごい悪臭を放っていた。道に放置されたトラック。荷物を積むところか、下ろしているときなのか、トラックの荷台には発泡スチロールのケースがぎっしりと積まれていた。ところでその中身はいったいどうなっているのだろうか?いつまで放置されているのか・・・・?

 窓が割れ、カーテンが風になびき、雨に打たれている。割れた窓から中をのぞくと電動ベッドが置かれていた。小さく区切られた部屋には家具やテレビ。ここはグループホーム。海岸線に近く、環境はとてもよい。津波がくるまでは認知症の高齢者が穏やかに過ごしていたことだろう。どこへ避難したのか、全員が避難できたのか。人影もなくひっそりとしている。

湊地域包括支援センター

 天井まで水に浸かり、廃墟と化していた。職員でまだ行方不明者がいるという。天井の裂け目に挟まったスリッパが印象的だ。天井近くまで水がかぶった後があった。建物の前に積まれた土砂の中にはピンクのパスケース。持ち主はいったいどうしたのだろうか。
 想像を絶する光景が限りなく続く町並み。すごいね~と感想を言いながら走っていた車中は、いつしか誰も言葉を発しなくなった。
降り続いた雨は夜半からみぞれになり、やがて雪に変わった。さすがに東北といえども例年なら4月下旬に雪が降ることはない。雪は降り続き、一面を銀世界に変えていった。

4月20日  避難所で生活している高齢者に対してのアセスメント

 日本介護支援専門員協会、湊地域包括支援センターとの調整がつき、湊地区の避難所へアセスメントに出かける。途中で立ち寄ったコンビニでは営業はしているものの、出入り口のドアが壊され、ベニヤ板が張ってあった。
 石巻市内では支援が必要な要介護者のほとんどは特養に避難できているとのこと。しかし、ある程度自立できている高齢者が小学校などの避難所で生活をしている。若い人たちは、日中は自宅へ戻り、片づけをするなど、避難所から出かけることが多いという。しかし、自由に出歩くことが不可能な高齢者は狭い避難所で1日を過ごす。当然のことながら、廃用症候群になるのは必至のことと思われる。

 翌日から学校が始まる。各教室すべてが避難所に使用されていたため、新学期準備で多くの被災者が避難所から出なくてはいけなくなった。自宅へ戻れる人はいいが、さらに非難を続ける人は別の避難所へ移っていった。移った避難所で受け入れをしてもらえず、また戻ってくる人々。しかし、避難所は一度そこを出ていくと再度受け入れはしてもらえない。そのような人たちが行くところがなく、校舎の階段や、踊り場にあふれていた。
 体育館などでの生活が困難な要介護者は特別教室で生活をしていた。8人の高齢者に対してアセスメントを行う。2~3名の話を伺う。「神奈川から来たケアマネジャーですが、お話を聞かせていただいてもいいでしょうか?」

 どの程度の話を聞いたらいいのかと心配していたが、私たちが問いかけると皆、堰を切ったように震災の状況を話してくれた。
 昨夜からの雪はやんだが、この日も4月下旬にしてはとても寒い1日だった。あの日も夕方から雪になった。津波に流され、命からがら登った家々の屋根の上、これでもかといっているように、冷たい雪は一晩中降り続いた。夜がなんと長かったことか。避難所になった小学校の門の前で出会った女性が話していた。
「そうそう、雪がどんどん降ってきて、周りは真っ暗、どうなっているかもわからない。・・・・」話をしているところに三々五々集まってきた人たちは口々にあの日のことを話してくれた。
 津波はあっという間にあたりを飲み込んだという。気がつくと肩まで水に浸かっていた。皆が同じように津波の怖さを口にした。
 配られたパンやおにぎり、食べずに取ってあった他人のものまで食べてしまう認知症の女性・・。また、別の女性は避難所に来てすぐに、風邪から下痢を起こし、食事がとれずにほぼ寝たきりで過ごしたという。42日間便秘していると訴える女性もいた。

4月21日  家屋支援

 避難所にてアセスメントを行う調整がつかなかったため、家屋支援に向かう。石巻専修大学にボランティアセンターが設置されている。そこでボランティアと市民のマッチングを行っている。キャンパスには日本各地のナンバーをつけた自動車があふれていた。テントで生活をしながら支援に来ている人たち・・・しかし、まるでオートキャンプ場・・・これでいいのだろうか?疑問がわいてくる。避難所のトイレにはトイレットペーパーは設置されていなかった。手を洗う水もなかった。しかし、ここにはボランティア用にきれいな仮設トイレ、ペーパーも設置されている。手を洗う水もここにはあった。

 川沿いにある、小料理屋にて家屋支援を行う。
 高齢の女将さんと、大女将さん?倉庫の中に経理書類や、食器など浸水したものが残され、ものすごい異臭を放っていた。
 食器類は震災後に一度片づけた。しかし、余震でまた壊れたという。
残った食器を発泡スチロールのケースに入れ、高く積むことなく倉庫の端に片づける。重さがあるため片づけられなかったようだ。キャビネットの中にはアルバムが多数。やはり異臭を放ち既にカビが生えていた。その中に1枚の写真・・・82歳という大女将さん・・・あら~とっても美人です!!!ぬれても写真の色はあせてはいなかった。箱に入ったとっくり、その中には水がたまっていた。やはりかなり臭い。コップや小鉢の中も、みんなみんな、ヘドロの水をそのままためていた。
男性陣はというと・・・浸水して床下にヘドロがたまった部屋の床を解体、家の周りの側溝にたまったヘドロを除去・・・私たち女性は大女将さんと震災時の話などを聞きながら・・・ある意味での聞き取りを行っていたのだが、男性陣は黙々と作業をしていた・・・らしい。女性陣がそんな話をしながら活動していたとは知らなかった・・・と。

被災ゴミ・・・という。道ばたに積まれた畳、家具、オーディオ等・・・。この日は天気がよく気温も上がってきた。空気は乾燥している。本当ならとても気持ちがいい春の1日であろう。しかし、ヘドロにまみれた町、道路から乾燥したヘドロが空気中に舞っている。至る所で悪臭が漂う。溝や床下から掻き出したヘドロを運び出し、被災ゴミ置き場へ投げ込んだ。生活ゴミは回収にくる。しかし、この被災ゴミはいつ回収してくれるのだろうか。
 
 神奈川へ向かう時間もあり、午前中で作業を中止した。私たちは都合で作業を終わらせることができる。しかし、被災地ではこの状況がいったいいつまで続くのだろうか。
作業が終わって、女将さんが「まさかケアマネさんが来てくれるとはね~」ケアマネという存在を知っていてくれたことがうれしかった。
「梅干しは水に浸かってだめになったけど、味噌は大丈夫だったのよ。梅干しはいいのだけれど味噌は今年1年分だから」味噌が店の営業に関わるという。その味噌で作ってくれた焼きおにぎり、こんなおいしいものを今まで食べたことがあっただろうか。
 この生活が今のここでは「ふつうの生活」と女将さんは言う。
 本当の意味での普通の生活が戻るのはいったいいつになるのだろうか。

春の日差しが優しく差し込み、穏やかな休日。横浜はなんと平和なのだろうか。車を6時間程度走らせただけで、まるで異国にでも来たような光景が広がっている。しかし、月日が経つにつれて徐々に記憶が薄れていく。
 「普通の生活」が送れる幸せをかみしめながら、横浜から「私たちができること」をこれからも模索しながら長期スパンで復興支援をもう一度考えていかなければならないと、今、改めて感じている。

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